ソロモンの戯言

僕が誰かということじゃなく君がどう生きているかに寄り添いたい

わたしが会社に行く理由

会社という場所は、わたしにとって、本当に、何でもない場所だった。

 

満員になるちょっと前の電車に乗り込んで、なんとか座ったらホッとして、

着いたら「おはようございます」と言いながら自分の席に座り、朝食のパンをかじる。

ちょっと余裕があるときはコーヒーを自販機で買って、それがリッチな朝ご飯で。

定時に上がることは目標だけど、そんな「定時」というものは存在しないことだってもう結構早い段階で飲み込んだ。

仕事の覚えもそこまで悪いほうじゃないし、積極性には確かに欠けるけど言われたことはきちんとこなしていると思うし、先輩のいうことに歯向かうようなタイプでもないし多分新入社員としての評価はまぁまぁ良いほうだと自覚はしていた。

だけど仕事っていうのはやっぱり、自分の生活を維持するためのものであって、夢とか入社試験の時に語ったようなことをすぐさま実行に移す気は正直なくて、お金がもらえるからやっているし、ここにも来ているし、お金がもらえなくなったらきっとここに来る理由なんてなくなってしまうんだろうなーなんてことを頭の片隅のどこかにちらつかせながら暮らしていた。

 

そこにある変化が訪れたのだ。

そう、こんな風に言ってしまうとまぁ、少女漫画的展開かって感じなんだけど、実際なんというか、青天の霹靂というか、そういうことって社会人になってもあるんだってちょっと感動もしたのだ。

 

その日わたしは、3つ上の先輩に仕事終わりに飲み会に誘われてついていった。

いわゆる「ゆとり」世代に当たるのだけど、自分で言うのも何なのだけど、わたしはこういう時、意外とお断りしない性格なのだ。あ、はーいと言って、ついていく。

何かを期待しているわけではない。自分の評価がどうなるとかも、考えない。ご飯代が一食分浮くと思って何でも我慢できる!なんていう同期の考えにも到底賛同は出来ない。先輩たちが特別好きなわけでもない。

ただ何となく、断る理由もないから、行く。嫌いな食べ物はないし、お酒は飲めるほうだし、人のお小言もちょうどいいさじ加減で右から左に、時々タイミングのいい相槌を打ち込んだり、出来るのだ。苦じゃないのだ。

羨ましいっていうひともいるけど、わたし自身はこの性格を特別羨ましくも誇らしくも感じていない。ちょっとドライだなって思ってしまう。たまたま、今は本当に偶然、たまたま、いい方向に物事が転がっているだけで。人がいいように解釈してくれているだけで。

こんなのは全て表裏一体、いつ誰がどういうタイミングで手のひらを反したり、快くなく思っていたと暴露してくるのだろうとさえ思っている。わたしにはそんな節がある。

 

そんなわたしだから、その日も断る理由もなく、嫌みな笑顔もなく、いつものように誘われるがままに飲み会についていった。

向かう途中から携帯でしきりと連絡をしている先輩を見ていたので、おそらくわたしたちだけではないであろうことくらいは察しがついた。そして案の定、到着してみるとそこにはもう3人、先客がいた。

新入社員はわたしを含め、あと一人。同じ部署ではない面識のない新人の子が先に居た先輩たちの間でこぢんまりしている。明らかに気弱そうな、あまり望まずにその場に連れてこられた風の男子だった。…おいあんた、そんな気まずそうな表情あからさまに出すのやめなって。

「おー悪ぃワリぃ!お疲れー」

「お疲れ~今ちょうどドリンク来て始めたところだよ。」

「あ、そうなん。」

時々見かける女性社員の先輩と、あまりまだ接点はないけれど同じ部署で働く男性の先輩だった。どうやらこの先輩たちはみんな、同期のようだ。先輩たちがいつものノリ、という雰囲気で話し始めたときに、気弱そうな彼がちらりとわたしを見た。…だから、そうあからさまにHELP!って顔するのやめなってば。

「あれ、ウエノは?」

「あ、ウエピーなんかまだもうちょいかかるみたい。」

「さっきLINEしたら『もう上がるー』とか言ってたけどな、アイツ。」

「あれじゃね、カンノさん今日休んでたし、準備してんじゃね。」

「あり得るねー。ウエピー超絶準備野郎だしね(笑)。」

ある程度仲の良い同期で盛り上がったあと、思い出したかのように先輩がわたしを紹介してくれて、向こうの先輩からトオノくんを紹介された。

「…初めまして、トオノです。遠い、野原で、遠野といいます…。」

思ったよりも低い、いい声の青年だった。気弱な雰囲気はそのままで、ショートヘアーの似合うサバサバした女の先輩にいちいち突っ込まれている。…きっと、結構気に入られているのだろう。

「ハルカワです、春の川ね。」

「ヤマシロです、山の城(笑)。」

「つーか、何この漢字当てる自己紹介。誰発信だよ!」

「そりゃ遠野くんでしょ。」

遠い野原の遠野くんは、あからさまな苦笑いを浮かべながら「すいません」と言った。

 

乾杯も終え、食べ物もだんだんとやって来て場も少しずつ温まりはじめた。

というか、遠野くんがお酒が回って(見た目通りあんまり強くはなかったらしい)だいぶ嫌々モードが抜けてきたというのが正直なところかもしれない。大学では何を専攻していたとか、実はプログラミングが得意であるとか、意外とリズミカルな調子で喋っている。声もツヤが出てきて、目だけつぶって聞いてれば実に心地いい。不思議だ。

「…へぇー、まぁ言われてみれば理数系っぽいよねぇ。」

「いや、まぁ。出来るっちゃ、出来ますけど、専門の人たちには全然っす。」

急に賞賛の目を浴びて、あからさまに照れているあたり、彼は実はとても素直でいい青年なのかもしれない。と、そんな風にわたしが思ったときだった。

「ここ?」

なんだか居酒屋に似つかないくらいに爽やかな香りが一瞬わたしの背後から漂い、ふと視線をうつしたらそこに、なんというか、空気清浄機みたいな人が、立っていた。

細マッチョ、とでもいうのか、程よい筋肉質なのが見て取れる体つき。ちょっと明るめの茶色い髪。切れ長でいて奥二重の涼しげな目。コンタクトを外してこちらに掛け直しましたとでも言いたげのメガネ。青いネクタイ。

その人が現れた瞬間に、なんというか、今まで濁っていた空気が一斉に除去されたようなそんな雰囲気をまとった人であった。

「お、やっときたか~ウエノ待ちだったんだぞ~。」

「お疲れウエピー!」

「何、残業?」

「え、あぁ、いや、明日もし彼女また休んだらなと思って、確認っつーの?」

ウエノ先輩がそう応えると、先輩3人は口を揃えてやっぱり!と言って笑った。やっぱウエピーは真面目だね(笑)。予想を裏切らないね(笑)。当の本人はキョトンとしている。

「あ、ウエピーほら自己紹介して。シンドウの部にいる××ちゃん。」

「え、あ、はい、どうも初めまして。ウエノです。上野駅の、上野。」

これには思わずわたしも吹き出してしまった。幸い他の4人がもっと笑ってくれたのであんまり目立たずに済んだけど。上野さんはいよいよ訳が分からないといった顔だ。こんなときにでも不快な顔をしないできょとんとしているあたり、この人もいい人なんじゃないかと直感的に思った。

すると赤ら顔でニコニコしていた遠野くんが例の艶のある声で

「僕の挨拶、笑ったじゃないですか。でもあれ、来てから言おうと思ってましたけど、上野さんのなんですよ!上野さんが最初の自己紹介でそうやって言ってくれたんで、じゃあ俺もそういう風に言ったほうがいいのかなって思って。」

「え、何それ!(笑)じゃあ遠野くんじゃなくて、元祖ウエピーってこと!?」

「まじ(笑)」

「…あ、名前の言い方ってこと?いや、あれはさ、俺が入った時に一つ上にタカナシさんっていう先輩がいたんだけど、タカさんが最初の挨拶の時に『タカナシです。小鳥が遊ぶって書いて、小鳥遊(タカナシ)。タカがいないと小鳥たちが気軽に遊べるから』って言ってきてさ、そんな風に言われたら一生忘れないじゃん。で、これっていいアイディアだなって思って採用したんだよね(笑)」

 

そのときだったのだ。

上野さんが屈託なく笑ったときに、なんだかこう、雷が落ちたみたいに、なったのだ。

それは春の嵐が来るみたいに突然で、どうしようもなく抗えないくらいの、ギュッと胸をつかまれたような感覚だったのだ。わたしの頬は、急に、アルコールと関係のないところで熱く火照ってしまった。

「でも、たいていのウエノさんって上野駅の上野じゃねーの?(笑)」

「それが、たまにいるんだよ、木の植え込みの植野さんが!」

何それ!(笑)と散々突っ込まれている上野先輩だったが、口元には絶えず笑顔があり続けた。木の植え込みって、と思わずにはいられないわたしだったけど、でも途中からもうそんなこともよくわからなくなって、ただただ、たまたま空いていた隣の席に座った彼の横顔をじっと見つめていた。まつ毛が、くるっと上を向いているな…そんなことを思っていたら急に上野先輩がぐるんとこちらに体を向けて、言った。

「はい、だから、上野駅の上野です。よろしく、××ちゃん。」

 

その日の飲み会は、とても楽しかった。

遠野くんが酔いつぶれて、お開きになったシーンは鮮明だったけど、でも、なんだかあっという間に過ぎてしまって、一つ一つを大事に思い返すのは難しいように思える、そんな時間だった。そしてそんなことは、わたしの社会人人生の中でも初めての出来事だったのだ。

「ご馳走さまでした。ありがとうございました。」

「なんか楽しかったねー。また飲もうね!」

「じゃあ俺、こいつ送ってくわ。遠い野原で置いてくる!(笑)」

「よろしくお願いします。ありがとうございました。おやすみなさい。」

山城さんと遠野くんは実は意外と帰る方向が同じらしい。ぐにゃぐにゃしている彼をタクシーに押し込んで、また明日といって去っていく。春川さんと進藤先輩は地下鉄に乗るらしい。自然、JRに乗り込むわたしと上野さんが帰ることになった。…急にドキドキしてしまう。どうしたものか。会話を続けねば、と思った矢先に上野さんが言った。

「あんな面白い飲み会、久しぶりだったわー(笑)」

思い出したかのようにクスクス笑っている。ギュン、というような音がどこからか鳴ったような気がした。

「遠野くん、いいキャラでしたね。」

「アイツあんまり誘っても来ないんだけど、今日は春川がちょっと強引に誘ったんだよね。もともと進藤と山城と俺が飲もうかって言ってて、春川が遠野誘うってなって、俺に連絡がきて、じゃあ俺も後輩連れてくわって進藤が言って、あぁなったんだけど、どうだった?嫌じゃなかった?」

「全然。楽しいお酒が飲めたと思います。」

「そっか、ならよかった。でも××ちゃん、酒強いね!遠野が弱ってく中、普通に飲んでたもんね。」

…そんなところを見られていたなんて。恥ずかしい。

「俺、どっちかっていうと遠野タイプだから、羨ましいよ。」

そういってニコッとしたのだ。わたしに顔を向けて。上野さんは、なんというか、もうその秋の夜の空の高さじゃ足りないくらいに、澄んで、大きな存在になってしまった。

「気を付けて帰ってね。じゃ、また明日。」

「ありがとうございました。失礼します。」

「うん、おやすみ。」

 

…そう、その日から、わたしには出社の楽しみが出来てしまった。

今日いるのかな。会えるかな。どこで何してるかな。

部署が違うから普段顔を合わすことはないのだけど、時々休憩室で顔を会わせたり、廊下ですれ違ったり、自動販売機のとこにいるのを見たり。そんな些細なことが一日をこの上なく素晴らしいものにしてくれるなんて。

普段会社でメガネをしていない姿もなかなか見慣れることは難しくて。元来整った顔立ちなんだと思う。メガネなしでも十分に魅力がたっぷりだけど、あのメガネ姿は、垣間見れたオフの格好だった気がして、またメガネもみたいな、なんて不謹慎ながら妄想をしてみたり。

 

会社に行く、その理由が、やっとできたのだった。