ソロモンの戯言

僕が誰かということじゃなく君がどう生きているかに寄り添いたい

生きてる、っていう学校の怪談

あんまり乗り気じゃなかったのに

行こう行こうってあんまりにもはしゃぐから付き添って

それで週末からダウンしてるんだから本当にバカみたい。

あたしはそもそも海とか浜とかあんまり好きじゃないんだって

何度言ってもあの人たちはわかりゃしない。

しょっぱい水と、あとでベタベタしてギシギシになっちゃう髪の毛。

洗っても洗っても取れない細かい砂浜の粒。

今はいいかもしれないけど、あと何十年かしたらその肌に

茶色~いシミがぶわわーって出来てくるんだよ?

怖くて太陽なんて浴びてられないじゃん。

 

でも仲間づきあいって大事。

大人も子どもも社会に関わってるってことは同じ。

学校のセンセーとかって大人は大人は、大人になったら、ってすっげーいうけど

大人に社会があるのとおんなじで

あたしたちにだって社会があるんだってこと忘れちゃってる。

そういう大人はたいていあたしらの社会では馬鹿にされてる部類。

みんながみんなそうじゃないってことも、それなりに知ってる。

どこの社会も似たようなもん。

 

もともと呼吸器疾患を持っているわたしは

慣れない太陽を浴びたり無理にはしゃいだり夜遅くまで出てたせいで

土曜日の夜から結構な熱を出してぶっ倒れてしまった。

喉がヒューヒューいうのが一番つらい。

咳もゴホゴホ止まんない。あーもう本当にバカみたい。後悔しかない。

咳のし過ぎなのか熱のせいなのか頭もガンガン痛い。

もう誰に怒っていいのかわかんなくて、さっきっからお母さんに当たる。

それを分かってるのか何なのか、放っておくでもなくかまいつけるのでもなく

「はいはい」とか言いながら欲しいものが必要なものが

きちんと枕元に置かれていることに汗だくになって起き上がるたびに気付く。

母親ってのは社会の中でもトップクラスに優秀な人間だとあたしは断言する。

 

痰が絡む咳を何度も何度も繰り返しているときにふと思った。

あたしは生きてるのかもしれない。

苦しくて、何もかも恨めしいこの瞬間こそ、生きている証拠なのかもしれない。

幸せなときは生きてるな、なんてなかなか思わないけど

悲しいときにもその実感は湧きづらいものだけど

今この瞬間、あたしは確実に生きている。

 

そう思ったらなんだか、視界が開けたような気がした。

お母さんが枕元に置いて行ったアクエリアスのボトルからグラスに注ぎ

ぐいぐい飲み干す。熱い体にすーっと、まるで花火が上がるように

体の中を走り抜けていく。…うん、これも、生きてる。

そうかぁ。生きてるってのは苦しいってことを感じることなのかぁ。

じゃあ海がしょっぱかったことも

砂浜が暑くてざらざらで細かい砂が爪の間に入り込んできて

日陰がどっこにも見当たらなくって

そんなこと全部全部、あたしが生きていたってことかぁ。

ほほぅ。ほほぅ、面白いもんだなぁ。

 

 

そして、火曜日の夜、わたしは死んだ。

月曜日から体調が悪化して、肺炎とわかってからあっという間だった。

友だちに送った最後のLINEには

『生きてる感が今マックスだよ』とあったらしい。

生と死の境目がこんな薄板一枚だったなんてことは

学校じゃ教えてくれなかったように思うけど。