ソロモンの戯言

僕が誰かということじゃなく君がどう生きているかに寄り添いたい

国際的も愛国主義もこんなに遠いところにあるだなんて初めて知ったっていうはなし

俺の家にはテレビがない。

テレビがないと、生活のリズムは乱れにくい。

いや、もともと結構乱れているから

テレビごときで大きく変わることもない、というのが

本当のところではあるが。

 

俺の家にテレビがないことは、

これといって大きな問題になりはしない。

映画が見たければ映画館に行くし

どうしても見たい映画があればパソコンがある。

しかし、だ。

 

この時期になると話は少々変わってくる。

 

オリンピック、である。苦笑

 

そのシーズンごとに国民的スポーツや

有名なスポーツ選手が移り変わるこの国において

オリンピックというのは注目すべき最たるもので

普段馴染みのないスポーツや

そういう小規模なりにも頑張っている選手に

光が当てられる大事な時期、瞬間であるといえる。

そして、メディアのそのお祭り騒ぎに

国民はものの見事に乗せられるのだ。

気持ちがよいくらいに乗せられる。

 

よし、応援しようじゃないか。

おお、誰だあのルーキーは。

有終の美を飾れるのかベテランは。

最後にひと花咲かせるのか否か。

見てみたら可愛らしい選手だな。

…注目すべきポイントも山ほどあるし

競技の数も山ほどある。

 

…だからこそ、困る。

ついていけないのだ。苦笑

話題に全く、着いていけない。

たとえばイチローとかホンダとか

そういうの選手たちの名前は俺が一人暮らしを始めて

テレビと寝食を共にしなくなる前から知っていることだ。

だから、テレビがあろうとなかろうと、

ヤフーニュースやなんかでチラと見れば

話題に全くもってついていけないということはない。

ゴロウマルは、ほんとにギリギリついていったが(笑)、

今年のオリンピックに限ってはもう、お手上げである。

 

別に誰かに合わせた生き方をしたいとか

話題に乗り遅れないようテレビを買おうか検討しているとか

そんなことは一切ない。

だが、時々取引先との簡単な挨拶だとか

あまりかかわりはないが朝たまたま顔を合わせた同僚や先輩と

「たわいもない話」をする際にこのスポーツの祭典は大変便利なのである。

いや、…なのである、というよりは、のようなのである。

 

昨日のあれ、見ましたか。

ねぇ、凄かったですねぇ。

実は僕昔、○○をやっていて、

えぇ、そうなんですか!

…なんて会話が先週のうちにも2,3回はあった。

そういうときの俺はもう本当に、蚊帳の外以上に蚊帳の外で

菩薩に限りなく近い表情を作りながらその場で頷き

へぇ~とかほぉ~とかえぇ!なんて音だけを発して

必死のコミュニケーションを取っている。

 

だから俺にはこう思えてならない。

オリンピックというものは

テレビのある生活をする者のためにこそある、と。

そして俺は今現在、

ブラジルと日本の距離以上に

オリンピックとの精神的距離を感じながら生活を送っているのである。

間抜けな時差。